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「たんじゅん農」に興味湧く(土づくりその1) [自然農法の導入]

 ヤーコンの普及活動を通じて、ある方から「たんじゅん農」に関する情報をいただいた。この類の農法には興味を抱いており、3年前には別の方から情報をいただき、本も買い、ほんのさわりだけを実践し、成功もし失敗もした。
 さて、「たんじゅん農」については、驚かされることがあまりにも多い。これについては本を買わなくてもネット上でその詳細が公開されている。
 「たんじゅん農」とは、炭素循環農法のことで、2001年にブラジル在住の林幸美氏(Sr.百姓モドキ?)がホームページで公開され、頻繁に補追、訂正が行われている。これには先駆者がおられ、同じくブラジル在住の「Sr.アヒル殺し」(日本人?日系人?)がおられ、その方の実践や理論を引き継いでおられるようだ。
 そのホームページは次のとおり。
 百姓モドキの有機農法講座
 http://tan.tobiiro.jp/etc/home.html
 なお、Sr.とはセニョール(ポルトガル語: senhor)で、英語のミスターに相当する語
 そして、日本において、それを普及させるべく、「しろ ゆうじ」氏が2009年にホームページを公開されている。
 たんじゅん農を楽しむ広場
 http://tanjun0.net/

 以上、ざっと検索した結果、分かった状況である。
<2017年>(4月5日)
 そして、「百姓モドキの有機農法講座」を所々読んでみて、ビックリしたのは次の部分である。以下、引用する。

自然農法の理念と原理
神様の意地悪(誰がやっても自然農)
 元大本教信者であった、岡田茂吉は天(神)の啓示により「自然農法」の理念と原理を知ったと述べています。島本覚也は、出口王仁三郎(二代目大本教教祖)の指示で酵素を研究、後に高炭素資材を微生物の餌に最大限活用する「微生物農法」を創始します。やはり、彼も天の啓示と語っています。つまり自然の代弁者です。ところが面白いことに、両者とも農業者ではありません。
 前者は自然農法の「理念と原理」。後者(自然農法とは無関係と思われているようだが)は、その「技術」を天から授かりました。そのためか、一方は技術が伴わず宗教的に、もう一方は、高い生産性を誇りますが「肥」の概念から抜けきることができていません。

 天が二人に分けて授けたため、少々ややこしいことに。それを更にややこしくしたのが、何も授からなかった?福岡正信です。自身の体験と思考から、農を哲学(自然農)にまで押し上げて(追いやって ^^ )しまいました。泥(哲学)団子は条件(各人)次第で出る芽が違います(解釈の自由度が高い)。その分、精神的な満足感も得られやすく一般受けします。
 前二者とは対照的で自分自身が農業者です。しかし、原理や技術など実効・実利面では、何も見るべきものはなく「自然農法=猿真似」と人々に信じ込ませた張本人。でも、自然農法の名を世に知ら示した啓蒙者としては最大の功労者(現在では教祖的存在)です。彼なくして自然農法の歴史は語れません。
 哲学(あくまでも私的定義 ^^; ):
 人(地)中心の典型的な天動説思考体系。自然農法とは相容れない自然から最も遠いもの。明らかな答えなど出してはいけない奥ゆかしい学問。自然農法は小学生の算数並、哲学など無用の長物。
 福岡正信: 曰く、「この世の歓びも幸せも、真、善、美すべての物も人間が探求する方向にはなく、もとの道、自然の中に完備していたのであり、人間の希求する健全な肉体、自由な心、豊かな物など一切は人間の手中に自ずから存在していたのである。それに気づかず、人智に驕って、自然のふところから逸脱したときからすべてを見失い、それらの幻影を求めて狂奔するようになったにすぎない」。曰く、「自然は解らない」。

 日本ではこの三師が自然農法の代表的な先駆者でしょう(それぞれ原理、技術、広報担当)。それ以前に、ルドルフ・シュタイナーがバイオダイナミック農法を説き「基点と捉え方」を示しています。彼もまた、農業者ではありません(霊能者=心の世界をカンニングしている違反者であり、神秘思想家・人智学の創始者)。
 しかし、これらのことは“アヒル殺し”の農法の実際を先に知り、関係ありそうだと後から調べている内に分かってきたこと(“アヒル殺し”はシュタイナーや島本覚也、福岡正信の存在すら知らない)。
 偉大な先駆者達が部分的に得たものを、プロの農業者としての日々の生産活動を通し、一まとめに得たのが炭素循環農法だと言えます。そのため、巷の自然農法(人の頭が作り出したバラバラの既成概念)とは全く関係ありません。でも、分かってみれば何のことはない、真の自然農法以外の何ものでもなかったのです。

 神様が一人に全てを授けなかった理由が、何となく分かるような気がします。入り口はどこからでも構いません。誰でも、普段の生活・営農活動の中から、当たり前のことに気付く。ただ、それだけでよいのです。
  実際には何も知らずに、自然農法の原理に則り営農している者は、かなりの数になるものと思われます。その証拠の一例を上げれば通常の施肥栽培では、絶対に得られない低硝酸の農産物(原理を知って言えること)が、普通の市場に入荷されているという事実です。自然農法は、ことさら特別なものではありません。

指導者はいない(新しい者が先生)
 土や作物は「作る」ものではなく「できる」もの。バランスは「取る」ものではなく「取れる」もの、自然の側が決めます。ですから、人ではなく相手(自然=仕組み=法則性)が指導者(基準)です。土、作物、虫、微生物などや、自然農法を知らない者、新しい者(後輩)、より若い者が実際に教えてくれる先生となります。

 基点(視点)の逆転により当然、上下関係も逆転。「自分は誰の言うことも聞かない。誰からも教わらない」これが本物(自然農法の本質を理解した者)の言葉です。
 だからといって、別段難しいことではなく実践すれば、伝えさえすれば、“あちら”(自然=下位者)から教えてもらえる仕組みになっています。もちろん、“あちら”が代価を求めることはありません。伝えるのも当然、無償でなければなりません(必要経費を除く)。

 自然農法の先輩(実践者など)から教わることは何もありません。先に知った者は、それを伝えるだけで何一つ教えることができないのです。自然農法の創始者(岡田茂吉)は、自然農法に指導者は「要らない」と言いましたが、正確には「できない」。指導しては「いけない」です。
 先輩からも貰えますが、それは「問い」。これも逆転し、何らかの「答え」を出すと、後からその「問い」が出てきます。人が指導しようとした途端、自然農法ではなくなります。人から教わろうとしたその瞬間、学ぶことを放棄したのです。視点=基点=教えが、自然の側(天)ではなく、人(地)=己の側(既成概念)になってしまうからです。

 故に、先導者=出題者(煽動者?^^;)はいても、指導者はいません。師弟関係も存在しません。あるのは無条件で子を育む、親子のような関係でしょうか。これも本物を見分ける重要なポイントです。
 指導者がいたら“おかしい”と断定して構いません。巷の自然農法の指導者然とした者の教えや、そのグループが似非自然農法になってしまうのも、自然農法自体が未だに、あまり知られていないのも同じ理由でしょう。

 人(先輩)の言葉ではない、自然農法の実践現場や生産物からは、直接教わることができます。栽培・飼育記録などの“生の”データは生き物の“ことば”。たとえ他人のデータでも貴重な自然の教えです。ただし人知・感情を捨て、あら探し、疑う姿勢を忘れないように。
 言うまでもありませんが作物に対する基礎的な知識(性質や生理作用、応用技術など)は、一般的農法と同じように、先輩や書籍その道の指導者などから教わることができます。また単に、理論面だけなら既成概念同様、教えることも教えられることも可能です(このhpのように)。  

精神論は逆走の元(拘り障害)
 自然の有り様(ありよう)を基準にするのが自然農法です。しかし、その自然自体が物理空間という鏡に、映し出された虚像。実像=“実体”は見えない世界(意識世界)に存在します。
 啓示の発信元でもあり、岡田茂吉や島本覚也が理念・原理や技術を授かることができたのも、“もと”が「在る」からに他なりません。この関係が混乱を招いています。

 “実体”: 全て(物質、非物質に限らず)を構成している“もの”。その“もの(光の珠)”を誰でも“みる”ことができる。見え方は次第に変化し最終的に、王冠のチャクラ(サハスラーラ)と呼ばれる“光の輪”となる。

 実際面で、このようなことは知らなくても特に支障ありません。ただ「認識できないことは存在しない」と否定したら「おわり」。囚われるのは否定するより更に困りもの。
1.人(表面意識) → 事象・・・[慣行農法]。
 人の考えを基準に事象を捉え、人の都合に合わせて対抗策をとる。
2.人(表面意識) ← 事象・・・[自然農法]。
 事象をあるがままに受け入れ、起因や因果関係を基に「生き物を生かしている仕組み」を円滑化するための対応策を講ずる。
3.人(表面意識) ← 事象 ← 意識世界(実在世界)・・・[精神農法?]。
 代表的なものがシュタイナーのバイオダイナミック農法。
 意識世界=言葉のない世界(未来、潜在意識もこの世界に属す)との関わりは、表現が多様・複雑・難解化する。

 事象 ← 意識世界(実在世界): 同じ種を同じように蒔いても常に発芽率が良い者がいる「種が蒔き手を選ぶ?」「種に好かれている?」などという現象が昔から知られている。無条件で動物が「言うことを聞く、好かれる」なども同じ。
 言葉: 物質に限らず科学、文学・芸術や言語、文化なども、言葉(虚像)の世界に属している。言葉を超えたところ(実像の世界)の“ことば”の応用がバイオダイナミック農法の調合材。
 「自然という二文字を頭に冠したものは実体の存在に気付いたとき、本当の理解が始まった」と言ってよいとは思います。しかし、誰でも見える世界と、“みえる”(分かる)者だけに、“みえる”世界を、ごちゃ混ぜに語るのは危険。農法としては 2. で十分。3. は分かる者だけのものと言ってよいでしょう。

 自然の仕組みに沿う → 省力・省エネ・省資源 → 環境負荷軽減(浄化・保全) → 生産性向上 → 生活の向上(質、量とも) → 精神的向上・満足 → 自然に感謝。
 これが自然の摂理に従うということ。従った結果現れる一連の現象。しかし、
 自然に感謝しろ → 我慢し精神的向上をはかれ → スローライフ・スローフードに徹しろ → 低生産に甘んじなければならない → 自然を大切にしろ → 資源の無駄遣いをやめろ → 自然の仕組みを壊すな。
 というのが一般的。でも、これ逆走なんです。いたるところで見られる因果取り違え現象。結果(事象)を「自然と調和し生きる方法」なのだと思い違している典型例です。
 精神論による混乱は、無意識の内に“実体”の存在に、気付いたゆえの歓迎すべき現象?。でも意識世界の知識を、無理矢理こちらの世界の言葉に変換したものを、“みえない”者が安易に使うのは考えものです。天動説に嵌ります。

 この世は、あくまでも物質世界。農業は「生きている」「物」を扱う仕事。精神面の偏重は意識の硬直化(精神世界病?)を招き、実際の栽培・技術面にも障害となって表れます。「拘り障害=自然農法症候群」とでも呼べば良いのでしょうか(笑)。施肥障害並みの重大な障害で、施肥農法と同様な結果をもたらします。
(引用ここまで)

 いやーあ、恐れ入りました。
 これから、時折2つのHPを覗いて知見を広め、自分なりに「たんじゅん農」を進めていきたいと思ったところです。
 引用の文末ででてきた「施肥農法」に関して小生が驚いたのは次の件(くだり)です。(以下、引用)
 
 有機農法=堆肥農法ではありません。有機物(炭素資材)を堆肥化すると、原料にもよりますが微生物の働きにより、半分から十数分の一の量になります。大量の資材を使うということは、それだけ環境に負荷をかけることを意味し環境破壊に繋がります。
 即ち堆肥は微生物が食べ残した残り滓(ボカシも同様)。残り滓で最大の効果を期待するのは無理というものでしょう。

 堆肥は作物の肥料にはなっても微生物の餌にはなりません。食べ滓ですから土を団粒化する力が僅かしか残っていないのです。最小限の有機物で最大限の効果を上げるためには、土の外ではなく土の中で微生物を働かせます。
 土壌物理性の改善(団粒化など)は微生物が土壌中で働いてこそ可能であり、これが実際の土の作り方。すると土は進化、階層化します。これが土を作るという真の意味です。

 団粒化に貢献するといわれる、ミミズや有用センチュウ等の微小生物は、微生物がいて初めてその力を発揮します。尤も土がフカフカでミミズが沢山いるようではまだ、土ができていない証拠。現行の有機(堆肥)農法を見れば明らかなように、菌害や虫害が出ます。
 炭素循環農法では糸状菌が先に有機物を食べてしまい、細菌類や昆虫、ミミズは消えてしまいます。微生物が有機物を分解し微小生物の餌とし、微生物自身も彼らの餌となり土壌中の食物連鎖ができ上がります。実際には、肉眼で確認できる虫はほぼ全て消えます。

 いかがでしたでしょうか。興味が湧いた方は、先に掲げたHPを覗いてみてください。

(5月10日)
 なかなか忙しくて、膨大なページの「百姓モドキの有機農法講座」がまだ全部読みきれていないが、ポイントが理解できたような気がする。
 野菜の肥料と、ヒトの食べ物と、これを比較してみて、基本は同じであることに気がついたのである。
 ヒトの食性は、本来は完全な植食性であって、それも野草の生食で、芋も穀類も食べないのである。そして、それに適した腸内細菌が宿主のヒトとの共生関係でもって大繁殖し、後腸発酵によって各種アミノ酸、有機酸、ビタミンB群などを産生し、ヒトの栄養となっているのであり、これで全てを賄ってきた。ゴリラがそうである。
 ところが、ヒトはまず原始時代に芋を常食するようになり、自前の消化酵素でデンプンを分解してブドウ糖をつくりエネルギー源とした。次に、一部地域では1万年前には芋に代わって穀類(たんぱく質を高含有)を常食するようになり、また、それ以前から一部地域で動物食を始め、アミノ酸も自前でたんぱく質を分解して調達するようになった。
 これにより、ヒトの腸内環境は激変し、加えて、穀類と動物食はあまりの脂肪過剰で腸内環境をさらに大きく変化させてしまったのである。
 ヒトの食性の基本的変化は、野草→野草と芋→野草と穀類→野草と穀類と肉というものであり、これによって、現代人は大腸内での後腸発酵はしなくなり、全ての栄養素を自前の消化酵素で調達するようになっていると言っても過言でない。
 ヒトはまだこの食性の変化に対応できておらず、虚弱であり、生活習慣病を多発し、けっして健康体ではない。客観的に申せば、現代人は皆、できそこないの生き物なのである。
 一方、野草を品種改良した野菜、これはまだまだ原始性を備えており、本来の育て方をすれば非常に丈夫な植物であるが、人類がその昔から行ってきた野菜栽培は、ヒトの食性同様に、本来の姿から大きく逸脱し、か弱い野菜しか育たなくなってしまっているのである。
 慣行農法は、化成肥料と苦土石灰で野菜に必要な主要栄養素(窒素、リン酸、カリ、カルシウム、マグネシウム)をダイレクトに賄おうというものであり、有機農法とて主要栄養素を吸収しやすくした有機肥料を与えるものである。これらは、ヒトの場合の芋・穀類・肉に相当するものであって、本来の野菜の栄養とはなっていないと考えられる。
 本来の野菜の必要とする栄養は、土壌中の菌類や細菌などの働きによって地表・地中の生の有機物や無機物が分解された理にかなったものであったはずである。つまり、ヒトがヒトに適した腸内細菌の大繁殖により後腸発酵によって各種栄養素が産生されてヒトの栄養となっていたのと同様なことが、土壌中で行われていたのである。
 それが、化学肥料や有機肥料が耕土に入り込むことによって、土壌中生物相がかき乱され、あたかも現代人の腸内環境のごとく本来の姿と極端にかけ離れた性状に変化してしまっているのである。
 これでは、野菜が本来必要とする理想的な栄養が得られなくなっているのは必然であり、現代人と同様に虚弱であり、病虫害を多発し、けっして健康体ではなく、皆できそこないの野菜ばかりになってしまうのである。
 さて、ヒトの食性を本来の姿に戻すのは至難の技であり、容易なことではないが、完全生菜食を実行しておられる方は現に何人もおられ、難病を克服しておられる。
 それと同様に、野菜作りも本来の土壌中生物相に戻すのは容易なことではないが、やってやれないことではない。ただし、一筋縄ではできっこない。野菜はヒトと違って生物種が多様であり、個々の野菜の種と土壌中生物相との共生関係は一様ではなかろうし、土質の違いにも左右されよう。
 そうしたなかで、「たんじゅん農」は、野菜本来の土壌中生物相に戻す手助けをする様々な手法を提示していると考えられる。

(本稿の続き)
 「たんじゅん農」=炭素循環農法を理解するにあたって思ったこと(土づくりその2)
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