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日本の農業はなぜ没落したのか [ファーマー雑記]

 今さらこんなことを言おうたって既に言い尽くされているのであるからして無意味であろうが、西欧文化論から日本の農業を眺めてみると、とても興味深いものがあるから取り上げることとしたい。
 先ずは、西欧文化論の権威者である元東大教授、木村尚三郎氏の著「西欧文明の原像」(昭和49年発刊)から、少々長くなるが抜粋して引用する。なお、本書が発刊された時代はベトナム戦争末期で、今から40年以上前のことであるから、その当時の世相を頭に置いて読んでいただきたい。

 (日本においてもヨーロッパにおいても)いまや国家それ自体が、事実上国内最大の、そして真の経済主体として立ちあらわれており、官界と産業界の密接な連携と一体化、官僚の産業人化と産業人の官僚化は時とともに露となりつつある。いわゆる混合経済体制(古典的資本主義体制と社会主義体制の中間)による国家資本主義の進展がこれであるが、そこではいまや私企業も国家組織のうちに組み込まれ、国家権力は分有している。
 国家はもはや、軍隊組織的構成をとりえず、新たに有機的多元化の原理に立たざるをえない。…一人の支配者に代わって多くの支配者が登場し、しかもその数が刻一刻とふえ、一方では支配者であると同時に、他方では被支配者である関係、網の目が広がりつつあるのが、現代の現代たるゆえんであるといえよう。
 「土離れ」しつつある現代において、一方で土への回帰、農業をあくまでも産業社会の基礎に据えるべき必要性が主張されはじめている。産業社会は人間の個性化と土地の脱個性化を、農業社会は土地の個性化と人間の脱個性化をもたらす。そのかね合いをつけてゆくのはこれからの課題であるが、人はたしかに、大地にむかい、あるいは大地に憩うとき、理屈ぬきで謙虚さと互いの共感と連帯をとりもどす。
 その意味で、いかに産業化が進行しようとも農業的人間類型は捨て去られてはならない。現実の産業社会の発展が、ヨーロッパのばあい、地域主義の漸次的拡大という形をとっているのは、まことに妥当で自然な姿であるといえよう。…
…(ヨーロッパにおいて)現代社会とそれ以前の社会との特徴的な相違の一つであるが、現代社会は相互依存関係の拡充とともに、これまでばらばらであまり関係のなかった諸地域を、広い範囲にわたって互いに結びつけることによって、各人の個性だけではなく、地域の個性をも積極的にきわ立たせるにいたった。
 それはけっして、画一的産業化の進展にともなって、地方・地域の古い体質がめだつようになったということではない。科学技術はたしかに普遍的な性格をもち、たとえば欧米にも日本にも、またアフリカの奥地にも同様な原子力利用の工場建設が可能である。しかしこのように産業社会の普遍的形式がグローバルな規模で整えられれば整えられるほど、あらわとなってくるのが、この形式をささえる実質の相違、すなわち各地方、各地域ごとの自然観と人間観の相違であり、自然と人間、人間と人間の関係についての価値観、世界観が、地方・地域によって、いかにさまざまの豊かなバラエティに富んでいるかということであった。
 この地方的、地域的な個性は、自然的諸条件や言語、生活様式、歴史的慣行などによってささえられ、相互の交流、影響は今後いよいよ活発となるとしても、人間がそれぞれ地上に定住生活ないしは一定地域内生活をつづけるかぎり、消滅することはない。文化はほんらい地方的、地域的な性格のものであり、各地方、各地域はみずからに固有な文化を他との対比において積極的に自覚しつつ協力しあう必要がある。
 このことは、産業化、相互依存化の増大とともに異なる文化と文化の摩擦が大きな問題としてクローズアップされることによって、さいきんようやく強く意識されるにいたった。日本、アジア、アフリカ諸地域、イスラム圏、ヨーロッパ、アメリカなどの地域文化圏の個性・体質、ないしは、さらにそれらの内部の地方的個性をあきらかにすることの重要性が、今日切実な問題となっているゆえんである。
 それと同時に、農業もまた改めて産業社会それ自身によって見なおされるときがくるだろう。それはたんに世界的な食糧不足の状況から、自衛手段として地域ごと、地方ごとの自給率を高めねばならないという問題ではない。農業こそが文化の地方的・地域的個性をささえるかなめであり、農業を捨て、あるいは無視する産業社会は、結局みずからのことばと心を失い、自滅するのではないかという反省である。
 この点でヨーロッパの産業化は、日本やアメリカのあり方とはちがって、つねに農業を基としながらゆっくりすすめられている。いま、そのことの意味をふかく考えなおすべきときがきている。わが国ではつい先ごろまで、「ヨーロッパは遅れている」ということがしきりにいわれていた。それがいかに皮相で傲慢な偏見であったかは、欧米から教えられたにすぎない科学技術の過度の適用と農業への無関心が、一見進歩のようでありながらも、じつは自然破壊を、そしてもっとおそろしいことに人心と人間性の破壊をひきおこし、世界一不安と焦燥にかられた、世界一猜疑心の強い、そして世界一非礼で無口な、見知らぬ他人には「ありがとう」とも「すみません」ともいわない非人間的人間、つまり人でなしをつくりだしてしまったことからも明らかであろう。(引用ここまで)

 この引用文だけを読むと、木村尚三郎氏はヨーロッパの文化をべたぼめし、日本人をけちょんけちょんにけなしているように思ってしまうが、ヨーロッパ文化には実にえげつない部分もあり、ほめられたものではないことも氏は言っておられる。例えば別のブログ記事「文明の根底には略奪文化がある」で引用したものがそうである。
 でも、こと農業に関してはヨーロッパ各国はしっかりした政策を取っており、それによって何よりも農業を基にした誇り高き地域文化を非農業者皆もが共有し、人間性が破壊されることもなく、不安感や焦燥感を抱くこともない、人心が安定した良き地域社会を形成しているのである。
 そこで、日本の農業者は当然のこと、非農業者も皆が大地に目を向け、農業と地域文化は切っても切れない関係にあり、相互に発展もすれば没落もすることをしっかりと肝に銘じたいところである。特に日本は世界一自然に恵まれ、五穀豊穣、豊葦原瑞穂国とうたわれていたとおり、地域地域の特質を生かせば世界有数の農業国となりうる基盤が整っているのであるからして、それは同時に誇り高き地域文化の構築にもつながるものであり、今一度皆で大地に目を向けたいものである。
 40年前に木村尚三郎氏が指摘されたことに対して今から取り組んでも遅きにあらずであろう。
 これは何も難しいことではないと小生は思う。
 その第一歩は、地域で取れた農産物をその地域の人が意識して食べればよいのである。行ったこともない地域の見たこともない農産物は避けることである。いわゆる「地産地消」であり、古い言葉を持ち出せば「身土不二」である。これは地域内で採れる物を食べていれば健康になれる、という食養から発せられた言葉であり、これを実践していけば、やがて地域に愛着が持て、そして地域文化を愛するようになり、そうなれば第二歩、第三歩へと歩を進める策が自然と湧いてこよう。
 地域農業と地域文化の間には密接な関連性があるということを木村尚三郎氏の著「西欧文明の原像」から教えられたところです。
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天安

どろんこさんへ。
日本の農業において、不耕起といわれる農法でやっているところは現在、何%くらいになるんでしょうか。
福岡正信さんや岩澤信夫さんといった方々の唱える不耕起農法。これがすばらしいと思うのですが、世間の動きを見ていると、あんまり不耕起というのが聞こえてきません。佐渡での不耕起の動きなど、以前なにかで見たことがるのですが、その後、さらに盛んになっているんでしょうか。あるいは下火なんでしょうか。このあたりファーマーとしての「どろんこ」さんにお聞きしたいと思いまして。
by 天安 (2016-01-20 10:32) 

天安

ブログへのコメント、感謝です。
不耕起農法がちょっと元気がないということのようで、残念ですね。畑作での自然農法、どろんこさんに絶大なる期待をしています^^。
by 天安 (2016-01-21 10:19) 

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